1996/6/24作成開始 アクセスカウンター

私が住んでいた横浜市、平塚市、横須賀市と生まれ故郷である松前町を紹介します。
函館・東京も紹介します。


オリジナル写真を使用して紹介しています。
松前町関係 78枚
函館市関係 46枚

My Web Systemでも別角度で紹介しています


 ご意見があれば 高木 までお寄せ下さい。

北海道松前町
神奈川県平塚市 神奈川県横浜市
神奈川県横須賀市   北海道函館市

 【北海道松前町】


松前町のオフィシャルページ
松前に関する資料は松前町商工観光課より提供いただいております。

2012/5/4の松前町の様子 2002/5/5の松前町の様子
松前町の木下さん提供の写真 1999/5/3の松前町の様子
2000/5/5の松前町の様子 2000/5/10の松前町の様子
2000/5/10の松前町の様子(2) ふるさと情報データベース
2000/9/3の松前町の様子

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<松前町の概要>

 総面積 293.08平方km 人口 13.440人(H7 12/31現在)
 松前町の端から端までは60kmにも及び集落が点在しており、だれがいったか「ふんどし町」といわれるほど長い町並みを海岸線に沿って形成している。
 松前の語源は(1)マツ・オマイ、(2)マト・マイ(婦人の居るところ)、(3)マツ・オマ・ナイ(崖の崩れているところ)、(4)マトマ・ナイ(川を表わしている)、等の諸説がある。歴史的背景からすると(1)、(2)で先住民(蝦夷)の住む地に、和人の女性も住むという珍しさを表わしているものと思われる。
 基幹産業は漁業でありイカ漁を主漁としている。以前は北洋など海洋漁業にも多く働いていましたが、200海里法による漁場規制などに経営の改革、発想の転換が迫られている実情にありながらも、町内には13か所もの漁港があり、1市町村単位では所有する漁港数は日本一を誇り、漁船漁業を主体としたなかで、水産加工業も多く松前の筆頭産業に台頭し、町の経済、雇用の面に大きく寄与し、かけがえのない産業に成長し続けています。
 また、畜産業をとっても、牛肉の中では高級品の和牛のなかで「松前牛」といえば東京市場でも有名な銘柄になっています。

<松前のさくら>

 松前のさくらは、多くは八重の里桜(園芸品種)で、気候風土に左右されやすく、なかなか育ちにくいとされていますが、長い歴史のなかでつくりだされたものだけに実にえん麗な花を見せてくれます。
 全国のさくらの名所の多くは、里桜の中でも一重の染井吉野が主体となっていることからも八重桜が豊富な松前は全国的にも希少価値があるといわれています。
昭和59年6月に「サクラ」が町花として指定されています。  


桜図鑑はこちら


松前の桜の情報
その1 その2 その3

松前サクラの慈父「鎌倉 兼助」
(北海道新聞2000年4月8日より引用)

  松前を日本有数のサクラの里に育てた鎌倉兼助は、鎌倉家十六代治肋、母チカの長男として明治十一年一月十一日、福山川原町(松前町字福山)に生まれた。
もともと、鎌倉家は山形県柏倉村(現山形市内)で、当主が治肋を名乗る大工棟りょうを業とする家であった。
十五代治助は嘉永三年から始まった松前城工事の大工をしたこともあり、十六代の治肋は明治八年福山に来て大工を続け、チカは豆腐屋を営んでいた。
 松前史談会記録によると、兼助は幼少のころ旧藩士和田瑳門の私塾に通い、のち松城学校に移って教員志望者らと机を並べ、同校を卒業した。
明治三十六年松前郡農会技術員となり、農業の指導に当り、明治四十一年福山町(松前町)書記となった。
この年の春、函館に出張し函館公園のサクラを見物した。
公園は爛漫(らんまん)のサクラで押すな、押すなの人出で、三味線、太鼓のにぎわいに強く心を打たれた。
当時の松前には寺社境内や旧家の庭先などに若干のサクラがあったが、肝心の松前城下には全くなかった。
町はニシン漁の衰退のため疲弊のどん底にあって、毎日のように争いやケンカが絶えず、せめて町民が一年一度公園に集まって団らんすることによって、町は必ず平和になる、と兼助は信じ、生涯を通じて松前のサクラを育てる決心をしたという。
大正期に入り手始めに吉野桜の接ぎ木をしたところ八割方成功したのに自信を得て、次々に接ぎ木を続けた。
このサクラを育てるためにはまず台木の選定から、苗床用の畑の確保、肥料、さらに植樹する地のほとんどがクマザサの茂みの中である。
これらの地を開墾しなければならないし、植栽した樹木への支柱など多くの難題があったが、自分が好きで始めたことだから、自分で解決するとただ黙々と接木をしていたという。
兼助は公的には多忙な人で、町助役一期、収入役四期を務めたが、その多忙ななかでも朝四時には起き、人の寝静まっているうちに肥おけを担いで役場の便所から人ぷんを運んで肥料にし、勤務後は午後八時ころまで畑に出ることを日課としていた。
昭和に入ると兼助の技術も円熟し、梁井吉野、関山(遅咲紅八重)、普賢像(遅咲八重)などの接ぎ木も次々にこなし、生涯に接ぎ木したサクラは一万本以上に達し、今年も五月には見事な花を見せてくれると思うが、サクラと町民を愛した兼助は、その功が認められ、昭和三十四年藍綬褒章、昭和四十年松前町名誉町民、同年十一月には勲六等旭日単光章を賜り、昭和四十三年十一月十三日、九十一歳で没した。
妻トモさんとの間に三男一女を遺した。
  =敬称略=
  松前の町史に親しむ会会長  永田 富智


<<蛇足>>
私の通っていた松城小学校は松前城の直ぐ脇にあった。
5月になると周りはきれいなサクラの海原となった。
ときには、サクラ吹雪となった。
そして毎年サクラの花びらのじゅうたんを歩いた。

休み時間に、関山、普賢像の大木のに登った記憶もある。

鎌倉 兼助氏は私たちの喜ぶ姿を見ていたかも知れない。


<<永遠に>>
私の実弟は小学生のころ「松前サクラ子供会」に所属していた。
(正式な名称ではないかも知れない)
弟が小学生のころ中華人民共和国にサクラを送った事を覚えている。
弟は今年、2000年の桜を観ずに亡くなってしまった。
弟の育てた桜も松前のどこかで美しい花を咲かせていると思う。
2000.4.25 兄


蝦夷松前の歴史

龍雲院本道、庫裏、惣門、鐘楼及び土蔵

福山法源寺山門

明治元年11月5日  旧幕府軍、松前藩福山城を攻撃する図

門昌庵(松前では町の行事となると雨が降っていました。「今日も門昌庵のタタリか」と言っておりました。)

私の実家には「嘉永6年8月」と書いた織物が残っております。


ゴローウニン

ロシアの軍人。1811年に南千島を測量中、国後島で松前藩の役人に捕らえられて2年間監禁された。
これに対して、ロシアは蝦夷地貿易商の高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)を捕らえた。
しかし、高田屋嘉兵衛は事件の解決に尽力し、1813年に両者は釈放された。
ゴローウニンが帰国後書いた抑留中の手記『日本幽囚記』は、各国語に訳されて有名になった。

2000年10月21日に松前町は「ロシア人 ゴローウニン外 幽閉地」の碑をたてた。


松前町の風景
96/97年の風景
2000/10/22の松前公園駐車場からの風景
松前駅 2000/10/29

白神岬周辺の風景

2002/5/4の白神岬の眺め
松前矢越道立自然公園と伊藤整生誕の地
2000/9/3の白神岬からの眺め

弁天島からの風景

弁天島

折戸浜(海水浴場/キャンプ場)

折戸浜

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松前を紹介するHP
松前線 (末吉 宏明さんのHP)
へ行ってみて下さい
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北の小京都 松前の「電脳盆栽店」

へ行ってみて下さい
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 【神奈川県横浜市】

   11月の横浜の風景です。雨でも絵になる風景です。 2000/11/03


 【神奈川県平塚市】 

第50回湘南ひらつか七夕まつりは7月7日(金)〜11日(火)の5日間の開催でした。(2000年)

近所の田園風景  1996年

近所の花水川  (白鷺がいる)

   ただいま資料収集中です。 「湘南ひらつか・清遊亭」”へお回りください。



 【北海道福島町】 


 福島町は北海道最南端に位置し、北は標高1072mの秀峰「大千軒岳」がそびえ、南は津軽海峡に面し、気候は比較的温暖である。岩部海岸は陸路の交通手段のない秘境で、奇石・奇岩が続く雄大な景観は、訪れる人を幻想とロマンの世界へ誘ってくれる。
 第41代横綱千代の山、第58代横綱千代の富士の二人の偉大な横綱を生んだ町として有名である。

福島町のホームページはここです。



 福島町のホームページには産地直送花婿候補通信販売があります。このページに続く「花婿候補・商品一覧表」は是非ご覧下さい。


 【神奈川県横須賀市】 

「よこすかガイド’94 市民便利帳」から

 


 【北海道函館市】

函館の風景

函館山/亀井勝一郎の風景

2002/4/27の風景 2002/4/27の風景

函館山の風景

2001/7/8の風景 2001/7/8の風景

函館山の麓(函館公園と大森浜)の風景 & 金森倉庫付近の風景

2000/5/27の風景 2000/6/11の風景

函館山の麓(谷地頭)の風景

2000/10/1の風景

函館山の麓(立待岬)の風景

2004年5月1日撮影

五稜郭公園の風景

2000/5/29の風景 2000/9/22の風景

大沼付近の風景

2000/6/10の風景

はこだて・みらい・産業展

2000/8/25の風景

碧血碑

「義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色になる」:碧血

碧血碑の前に立った。20年前はただの碑であったが、20年ぶりに見た碧血碑は重みがあった。

明治2年(1869)5月函館市内で政府軍と、旧徳川家臣の戦いで戦死した旧徳川家臣の方々を葬った墓碑である。
石材は伊豆産のもので、東京で刻み、海路函館に運び明治8年(1875)5月に建立したものである。
戦いは明治2年5月18日五稜郭が落ち、政府軍は招魂祭をし、戦死者を葬ったのに対し、
旧徳川家臣団の戦死体は手をつける人がいなかったのを、柳川熊吉が自分の子分を指揮して、
現在の弥生小学校近くにあった実行寺や称名寺に合葬したのを、明治4年(1871)頃に現在地に改葬した。
碑こは、表面こ「碧皿碑」裏面こは「明治辰己 実有此事 立石山上 以表厥志 明治八年五月」とあるだけである。
埋葬者数も記載されていないが、函館区史には796人とある。

 



 【東京都港区】   

宿舎の風景

宿舎からの風景(首都高速が見える) 2003/11/16
全景
近所の風景 その1 その2 その3 

2003 東京国際マラソン

風景その1  高橋尚子  風景その2  風景その3


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オリジナル写真で道南を紹介しています。


  ・・雑記帳のホームページ・・