私が住んでいた横浜市、平塚市、横須賀市と生まれ故郷である松前町を紹介します。
函館・東京も紹介します。
オリジナル写真を使用して紹介しています。
松前町関係 78枚
函館市関係 46枚
北海道松前町 | |
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2012/5/4の松前町の様子 | 2002/5/5の松前町の様子 | |||
松前町の木下さん提供の写真 | 1999/5/3の松前町の様子 | |||
2000/5/5の松前町の様子 | 2000/5/10の松前町の様子 | |||
2000/5/10の松前町の様子(2) | ふるさと情報データベース | |||
2000/9/3の松前町の様子 |
松前のさくらは、多くは八重の里桜(園芸品種)で、気候風土に左右されやすく、なかなか育ちにくいとされていますが、長い歴史のなかでつくりだされたものだけに実にえん麗な花を見せてくれます。
全国のさくらの名所の多くは、里桜の中でも一重の染井吉野が主体となっていることからも八重桜が豊富な松前は全国的にも希少価値があるといわれています。
昭和59年6月に「サクラ」が町花として指定されています。
松前の桜の情報 | ||
その1 | その2 | その3 |
松前サクラの慈父「鎌倉 兼助」
(北海道新聞2000年4月8日より引用)
松前を日本有数のサクラの里に育てた鎌倉兼助は、鎌倉家十六代治肋、母チカの長男として明治十一年一月十一日、福山川原町(松前町字福山)に生まれた。
もともと、鎌倉家は山形県柏倉村(現山形市内)で、当主が治肋を名乗る大工棟りょうを業とする家であった。
十五代治助は嘉永三年から始まった松前城工事の大工をしたこともあり、十六代の治肋は明治八年福山に来て大工を続け、チカは豆腐屋を営んでいた。
松前史談会記録によると、兼助は幼少のころ旧藩士和田瑳門の私塾に通い、のち松城学校に移って教員志望者らと机を並べ、同校を卒業した。
明治三十六年松前郡農会技術員となり、農業の指導に当り、明治四十一年福山町(松前町)書記となった。
この年の春、函館に出張し函館公園のサクラを見物した。
公園は爛漫(らんまん)のサクラで押すな、押すなの人出で、三味線、太鼓のにぎわいに強く心を打たれた。
当時の松前には寺社境内や旧家の庭先などに若干のサクラがあったが、肝心の松前城下には全くなかった。
町はニシン漁の衰退のため疲弊のどん底にあって、毎日のように争いやケンカが絶えず、せめて町民が一年一度公園に集まって団らんすることによって、町は必ず平和になる、と兼助は信じ、生涯を通じて松前のサクラを育てる決心をしたという。
大正期に入り手始めに吉野桜の接ぎ木をしたところ八割方成功したのに自信を得て、次々に接ぎ木を続けた。
このサクラを育てるためにはまず台木の選定から、苗床用の畑の確保、肥料、さらに植樹する地のほとんどがクマザサの茂みの中である。
これらの地を開墾しなければならないし、植栽した樹木への支柱など多くの難題があったが、自分が好きで始めたことだから、自分で解決するとただ黙々と接木をしていたという。
兼助は公的には多忙な人で、町助役一期、収入役四期を務めたが、その多忙ななかでも朝四時には起き、人の寝静まっているうちに肥おけを担いで役場の便所から人ぷんを運んで肥料にし、勤務後は午後八時ころまで畑に出ることを日課としていた。
昭和に入ると兼助の技術も円熟し、梁井吉野、関山(遅咲紅八重)、普賢像(遅咲八重)などの接ぎ木も次々にこなし、生涯に接ぎ木したサクラは一万本以上に達し、今年も五月には見事な花を見せてくれると思うが、サクラと町民を愛した兼助は、その功が認められ、昭和三十四年藍綬褒章、昭和四十年松前町名誉町民、同年十一月には勲六等旭日単光章を賜り、昭和四十三年十一月十三日、九十一歳で没した。
妻トモさんとの間に三男一女を遺した。
=敬称略=
松前の町史に親しむ会会長 永田 富智
<<蛇足>>
私の通っていた松城小学校は松前城の直ぐ脇にあった。
5月になると周りはきれいなサクラの海原となった。
ときには、サクラ吹雪となった。
そして毎年サクラの花びらのじゅうたんを歩いた。
休み時間に、関山、普賢像の大木のに登った記憶もある。
鎌倉 兼助氏は私たちの喜ぶ姿を見ていたかも知れない。
<<永遠に>>
私の実弟は小学生のころ「松前サクラ子供会」に所属していた。
(正式な名称ではないかも知れない)
弟が小学生のころ中華人民共和国にサクラを送った事を覚えている。
弟は今年、2000年の桜を観ずに亡くなってしまった。
弟の育てた桜も松前のどこかで美しい花を咲かせていると思う。
2000.4.25 兄
蝦夷松前の歴史
門昌庵(松前では町の行事となると雨が降っていました。「今日も門昌庵のタタリか」と言っておりました。)
私の実家には「嘉永6年8月」と書いた織物が残っております。
ゴローウニン
ロシアの軍人。1811年に南千島を測量中、国後島で松前藩の役人に捕らえられて2年間監禁された。
これに対して、ロシアは蝦夷地貿易商の高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)を捕らえた。
しかし、高田屋嘉兵衛は事件の解決に尽力し、1813年に両者は釈放された。
ゴローウニンが帰国後書いた抑留中の手記『日本幽囚記』は、各国語に訳されて有名になった。
2000年10月21日に松前町は「ロシア人 ゴローウニン外 幽閉地」の碑をたてた。
96/97年の風景 | |
2000/10/22の松前公園駐車場からの風景 | |
松前駅 2000/10/29 |
白神岬周辺の風景
2002/5/4の白神岬の眺め | |
松前矢越道立自然公園と伊藤整生誕の地 | |
2000/9/3の白神岬からの眺め |
弁天島からの風景
弁天島 |
折戸浜(海水浴場/キャンプ場)
折戸浜 |
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松前を紹介するHP
松前線 (末吉 宏明さんのHP)
へ行ってみて下さい
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北の小京都 松前の「電脳盆栽店」
へ行ってみて下さい
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11月の横浜の風景です。雨でも絵になる風景です。 2000/11/03
第50回湘南ひらつか七夕まつりは7月7日(金)〜11日(火)の5日間の開催でした。(2000年)
近所の田園風景 1996年
近所の花水川 (白鷺がいる)
ただいま資料収集中です。 「湘南ひらつか・清遊亭」”へお回りください。
福島町は北海道最南端に位置し、北は標高1072mの秀峰「大千軒岳」がそびえ、南は津軽海峡に面し、気候は比較的温暖である。岩部海岸は陸路の交通手段のない秘境で、奇石・奇岩が続く雄大な景観は、訪れる人を幻想とロマンの世界へ誘ってくれる。
第41代横綱千代の山、第58代横綱千代の富士の二人の偉大な横綱を生んだ町として有名である。
福島町のホームページはここです。
福島町のホームページには産地直送花婿候補通信販売があります。このページに続く「花婿候補・商品一覧表」は是非ご覧下さい。
「よこすかガイド’94 市民便利帳」から
函館の風景
函館山/亀井勝一郎の風景
2002/4/27の風景 | 2002/4/27の風景 |
函館山の風景
2001/7/8の風景 | 2001/7/8の風景 |
函館山の麓(函館公園と大森浜)の風景 & 金森倉庫付近の風景
2000/5/27の風景 | 2000/6/11の風景 |
函館山の麓(谷地頭)の風景
2000/10/1の風景 |
函館山の麓(立待岬)の風景
2004年5月1日撮影 |
五稜郭公園の風景
2000/5/29の風景 | 2000/9/22の風景 |
大沼付近の風景
2000/6/10の風景 |
はこだて・みらい・産業展
2000/8/25の風景 |
「義に殉じて流した武人の血は3年経つと碧色になる」:碧血
宿舎の風景
宿舎からの風景(首都高速が見える) 2003/11/16
全景
近所の風景 その1 その2 その3
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オリジナル写真で道南を紹介しています。